衝撃の再逮捕

ASKAのブログを追い始めてから、数ヶ月が経った時のこと。

新しいアルバムをリリースします、との報告がブログにあがり、ファンは大きな期待とちょっぴりの不安で浮き足だっていた頃だった。

あの衝撃の日がやって来た。

 

2016年11月28日。

ちょうど引越しの日にあたっており、私は旧居の家具類を全て梱包して、引越屋が来るのを待っているところだった。

パソコン等もすべて梱包してしまったので、携帯を持ってちーんと椅子に座っていた。

ふと何気なく携帯に眼をやると、「ASKA元被告 覚醒剤使用容疑で逮捕へ 警視庁」というテロップが流れている・・・!

(新着ニュースがテロップで流れる仕様になっている)

 

はぁ?!

なんじゃそりゃ?!

 

・・・急いでASKAのブログを開いてみた。

更新されたばかりのようだ。

さらに私の目の前で、次々と更新され続けている。

「なあんだ、やっぱり嘘か。逮捕されてないじゃん!」

と思ったが、いや〜な動悸が止まらない。

逮捕状もまだ出ていないようで、「これから逮捕状を請求する」段階のようだったが、それなのになぜこんな情報が流れるのか。

 

そうこうしているうちに、引越屋が来てしまったので、私はともかく全てを積み込んでもらい、自分自身も新居へ向かって移動した。

新居ではまだテレビが開通していないので、とりあえず一晩を越せるだけの最低限の荷物をほどいたり、夕飯を食べに行ったりして慌ただしい時間を過ごした。

 

ひと段落ついてから、Wi-Fiを使ってインターネットにつなげると、すべての惨劇は終わった後だった。

ASKAは警察がいることを知りながら自宅に戻ったこと、自宅ではマスコミがハイエナのようにたかっていたこと、その中を警察に連れられていったこと。

情報を後から追いかけながら、あまりのひどい仕打ちに悔しさがこみ上げて来た。

 

何度思い返しても、この日はおかしいことだらけだった。

逮捕状も出ていない状態で、なぜNHKASKA逮捕の速報を流したのか?

民放がすっぱ抜いたのではなく、NHKが流したということは、警察がわざと情報を流したのか?

ASKAの身柄を確保する前に、なぜその情報を流したのか?

ASKAが自ら戻って来たから良いものの、逃げられるということだってあり得る。

案の定、速報から実際の逮捕までは何時間も経過しており、マスコミがどんどん増えてしまっている。

わざわざマスコミを集めたかったのだろうか?

その中で大々的に逮捕劇を演じたかったということだろうか?

それは、集団リンチとでも言うべきものではないだろうか?

 

色んな人が指摘するように、この日の出来事は普通でないことだらけだった。

こういうことがあると、警察の政治的な思惑を深読みしてしまいそうになる。

そうすると、警察に対して不信感が生まれる。

警察を信用できない国って、不幸ではないだろうか?

もしやるならやるで、逮捕状を取り、身柄を拘束できる目処がついたところで、情報を流してほしかった。

もし粛々と逮捕していたならば、警察に対してそこまで不信感は抱かなかっただろうに。

 

ともかく、みぞおちにパンチをくらったような衝撃を受けた日だった。

考えてみれば、最初の逮捕の時、ファンはこういう気分だったのだろうか。

 

更にひどかったのは、翌日以降のマスコミによる扱いだった。

もう反論できないだろうと思われる人をターゲットに、すべてを悪意でねじ曲げて優越感に浸っていた。

あれは完全に、喋れない人をサンドバックにして殴りつけてストレスを発散している図だった。

端的に、いじめだ。良い大人がよってたかっていじめていた。

あんなことが許される社会であってはならない。

ターゲットが罪人であれば許されるのか?

いや、そうではない。罪人であろうがなかろうが、人を傷つけるのは許されないことだ。

基本的人権とはそういうことだ。

そんな基本的なことも忘れたのだろうか、この社会は?

そのうえ、ASKAのケースは、罪人であるかどうかすらわからなかった。

推定無罪の原則を、学校で習ったことがないのか?

あの時のマスコミは、本当に子供たちに顔向けできない恥ずかしいことをした。

人間のもっとも悪しき一面—いじめ―を、集団で公にまき散らしてしまったのだから。

 

警察とマスコミは、許されないことをしたのだと、心から反省してほしい。

これは、万一ASKAが有罪であったとしても変わらないことだ。切り分けて考えるべきことだ。

付け加えるなら、万一ASKA覚せい剤をやっていたとして、その犯罪は個人的なものだし、被害を被るのは彼の周囲とファンだ。

一方、警察とマスコミは公的な存在であり、公的な存在がこういう行為を行ったという事実は、潜在的にすべての市民もこのような被害に遭う可能性がおおいにあるということを明らかにしたのだ。

いわば、公的な暴力だ。

 

・・・いかんいかん、またまたカッカしてしまった。

このような感じで、11月末から12月にかけての私は、ASKAの新アルバムはもう聴けないかもしれない!という個人的な苦痛と、社会に対する義憤とで、まんじりともしない日々を過ごした。

そんな日々、発見したASKAの曲がある(まだまだ未発見の曲はたくさんある、20数年離れていたのだから)。

 ASKAソロ「はるかな国から」(1995年)。

いじめを苦にして死んでしまった中学生のニュースを受けて書かれたものだそうだ。

いつもながらの豊潤な転調メロディーは言わずもがな、歌詞も素晴らしい。

単純に「頑張れ、生きろ!」みたいな、外から視点の鈍感な励ましではない。

「わかるよ、死にたくなるよね」みたいな、共感しすぎておもねった歌詞でもない。

ASKA自身の立っているところから、可能な限りいじめの被害者の感じていることを想像して寄り添い、それでもなお、自殺はダメなんだ、と腕をひっぱって引き戻そうとするような歌詞である。

www.youtube.com

 

11月28日からの日々はこれを聴きながら、起こった事件に重ね合わせて、はからずもおいおい泣いてしまいましたよね・・・。